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アダルトチャイルド的な愛情拒絶

コメントがわりに。

あなたは、旦那さんが自分のことを大切に思っているからこそ、「相談なんて申し訳なくてできない、怖い」と思ってらっしゃるのですね。「本当に大切にしてくれてるのがわかる、だから苦しい。私なんてそんな愛情をかけてもらう価値なんてない」と。

気持ちはわかります。が…。

想像ですが、自分は愛情を受ける価値がないと感じているので、旦那さんの愛情を正面から受け取ることができずにいるのではないでしょうか。愛情を受け入れるのも怖い。あるいは、愛情を受け止めるのが不安。やや強い言葉で言えば、愛情を拒絶なさっている。

この「申し訳ない」という感情がくせもので、本当に負い目を感じているなら、素直に愛情を受け取ればいい。そうなんですけど、申し訳ないから拒絶する、という方向に行っています。ACらしいといえばACらしいのですが。

僕は、旦那に相談したほうがいいと思います。相談するには心を開かなければなりませんが、心を開くとはつまり愛情を受け取るってことだからです。夫を信頼するってことです。自分を愛してくれるたった一人の人くらい、信頼し始めてもよいではありませんか。

自己アピール病

この方は「やる気を見せるためにはどんどん残業しよう」という結論でモヤモヤが解消したそうだが、読んでるこっちは別のモヤモヤが出てくる。

なぜ新人に自己アピールが必要なのだろうか。就活を終えてすでに社員となったのだから、次は着実に実績を積んでいけばよいだけだ。まあもちろん、新人のうちは給料に見合うだけの仕事はできないだろう。しかしそんなことはまともな会社なら折り込み済みだ。社員が成長していくにつれて教育コストを回収できるように給与体系は設計されているはずだ。

この方は自己アピールが必要だと感じているのだが、その「感じ」はどこから来ているのか。だんだん仕事が慣れてきてミスもするようになった。そこで先輩たちの言動などから過剰に空気を読むようになったのではないか。誰も「新人は残業すべし」という価値観を明示的に提示しているわけではない。

僕がモヤモヤするのは、この過剰に空気を読む行為が企業文化になってはいけないと思うからだ。新人、だけでなく仕事のできないやつが、仕事頑張っていますよアピールで残業する。自主的な残業を強いる。その結果、仕事が非効率になるし、会社の支払うコストも増えるし、仕事のできないやつはますますできなくなる。何も良いことがない。

「結果が出せないならせめて時間だけでもかけるべきである」という考え方は滅びたほうが日本のためだと思う。

「やりたいことがないことは、正常だ」

良記事。

「やりたいこと」志向がどういう歴史的経緯で日本に輸入されるようになったのかはよくわからないが、価値ある人生を生きるためにやりたいことを持つべきであるといった圧力には確かにうんざりする。

しかし、われわれはもう昔に戻ることはできない。単純に家業を受け継いで次世代に同じ仕事を残していくといった生き方はできない。血縁の繋がりも希薄だ。いま存在している仕事も数十年後には技術の発達により多くは存在しなくなっている。

だから、「やりたいこと志向」のオルタナティブを提供できるとよいよね、と思う。それはなんだろうか。家族的つながりや共同体の価値が見直されるのだろうかね。

メンヘラと付き合うということ

(以下、メンヘラとはなんらかの精神疾患を患っている人とする。鬱やボーダーに限らず。)

なんか上の記事を読んで思うところがあったのでコメントを残す。

彼氏目線、というか健常者側の目線を書きたい。

健常者がメンヘラと交際することの難しさは端的にいって「支援者と恋人の両立」だと思う。

支援者として自分に要求されるものがある。そして、恋人として自分が必要とするものがある。メンヘラパートナーとの関係において、要求に応えつつ必要を満たす。このバランスは難しい。

具体的に。

上記事の彼氏の場合、彼ははじめ「自分に頼ってほしい」と言った。支援者になろうとしたということだ。でも、付き合っていくうちに不満がたまった。恋人としての自分の必要を満たせなかった。

彼氏は支援者になろうとする気負いが大きかったようだ。「2人で乗り越えていこう」「幸せにする」「僕に頼っていい」。彼女の役に立ちたい一心だったのだと思う。(こういう言葉を言ってしまう彼氏にとても危うさを感じるが)

でも、この関係は恋愛だ。恋人としての必要を満たせなければ、不満がたまる。誰も自分に嘘はつけない。彼氏は付き合う中でこんなことを感じたのではないか。「僕だって理解されたい」「僕だって仕事を休まずにストレスを抱えて頑張っているのに」「僕は愛されることを求めてはいけないのか」。心の中でどんな不満の言葉が浮かんできたのかはわからないが、不満があっても言い出せなかったのだろう。

彼氏はおそらく不器用だった。少しずつたまっていく不満に対して、上手に小出しにして彼女に打ち明けたり、深刻なムードにならずに自分の弱さを彼女にさらけだしたりは、まだ彼氏にはできなかった。不満は蓄積する。そしてダムが決壊するように、いきなり別れ話になる。

おそらくそういう感じだろう。

さて。

彼氏に足りなかったのは何か。

ひとつには、病気に関する知識が足りなかったと思う。鬱の彼女が仕事を遅刻欠勤するのがゆるせなかった。この「ゆるせない」は自分の常識のものさしに当てはめた場合だ。常識のものさしを当てて「良くない」と判断したら、その彼女を受け入れるには「ゆるす」という努力が必要になる。しかし「ゆるす」心的コストは高い。

彼氏が優しい言葉を彼女にかけるだけでなく、鬱に関する書籍を何冊か読んでいたらどうか。常識のものさしとは違う、もうひとつのものさしが手に入ったかもしれない。そうすれば、常識のものさしを無理に合わせて苦労することなく、鬱のものさしで考えることができた。ゆるす/ゆるさないの問題ではなくなる。そしたらもっと楽だったろう。

メンヘラとの交際に限らないが、知識は馬鹿にならない。「俺なら彼女を救ってやれる」などと救世主症候群になる前に、黙々とメンヘラの知識を積むほうが誠実だと個人的には思う。彼氏を責めるつもりはないが。

左利き禁止というマナー

昔、左利きは「ぎっちょ」と言われて差別されていた。

当時マナーという単語が普及していたかどうかは知らないが「箸は右手で持つべきだ」という規範は今でいうマナーだったんだと思う。

日本語のマナー感覚は「みっともない」「はしたない」という言葉で端的に表されている。みっともないことはしてはいけない。はしたないことはしてはいけない。そういえば生前のばっちゃがよく「みっちょぐねえ」って言ってた。

昔は左手で箸を持つことが「みっともない」ことだった。今はそういう感覚の日本人は少ない。浅学にして左利き差別是正の歴史を調べたことはないが、おそらく左利き差別と戦った人たちがいたんじゃないか。

でもこの「みっともない」という言葉がくせ者だ。今だって、女が電車で化粧をするのはみっともないとか、人前で鼻をほじるのはみっともないとかあるわけで。「みっともない」の規範は健在だ。

「みっともない」の規範は、なぜそれが成立しているかを考えると言葉で説明するのが難しい。倫理的に「悪」を行っているわけではない。他人に与えている損失は、せいぜい不快感だけだ。

増田の言うとおり、「みっともない」の規範は共同体内でお互いに仲間であることを確認する行為だと思う。だから共同体ごとにマナーは違うし、個々のマナーは成立理由の説明が難しい。ルールを守っていることが仲間であることの証なのだ。

マナーがそういう性質のものだとしたら、マナーがマジョリティに優しく設計されているのもうなずける。仲間であることの確認、異質の排除、マイノリティの差異の明確化。すべてのマナーが差別的であるとは限らないが、差別的なマナーが存在しがちであるのはわかる。

これからマナーもポリコレの洗礼を受けるだろうね。個人的には歓迎だ。

「努力」が評価されてしまう日本の労働文化

定時内で一生懸命働いて成果を出すことがきちんと評価される日本社会になってほしいね。

日本の労働文化では、「成果がうまく出ていないときにせめて努力したことだけでも見せれば免責される」という傾向がある。わかりやすいのは「新人なんだからせめて誰よりも早く出社して遅く退社すべき」みたいなのとか。

で、「努力を示す」のが長時間労働なんだよな。努力は目に見えないファクターだけど、それを可視化して定量化できるのが労働時間だっていう理屈。

なぜか努力を示すことが誠意なり忠誠心なりの指標になる。だから変な不等式が成り立つ。

長時間労働して成果を出す」 > 「時間内労働で成果出す」 > 「長時間労働して成果出さない」 > 「時間内労働で成果出さない」

でも会社によってはもっと不健全になっていて、不等式がこう入れ替わっているかもしれない。

長時間労働して成果出さない」 > 「時間内労働で成果出す」

不健全だよね。

成果だけを評価する社会と、成果と努力を評価する社会。前者のほうが厳しそうだけど、後者は能力がなくても努力を示せれば良い評価を得られてしまう。それで沼試合になったのが日本の労働文化だったんだと思う。

性的にまなざされる身体

メルロ・ポンティが「見ることは触れることである」といった旨のことを確か言ってたんだけど、エロ絵の文法で描かれた女性キャラが公共の場でさらけ出されることの不快感ってたぶんそういうところから来ているよね。

男性の性的なまなざしによってデフォルメされた女性の身体部位は、男性に性的に触れられている。それを女性が見たときに、日常生活の文脈から切り離されて不意に自分の身体が性的なものであることを意識させられる。買い物をしていようと昼下がりにおしゃべりをしていようとそんなことと関係なしに性的な身体を意識させられる。ここに強制があるので、性の尊厳が蔑まれているように感じるわけだ。

それはわかる。

とはいえ今や萌え絵は社会的に容認されつつある。しかも独自の地位を築きつつある。不適切なエロではなく萌えである、と。だから大した考えもなく役所や企業がイメージキャラとして親しみやすい萌え絵を使用してしまうし、それに対して批判が起きる。

これもわかる。

でもなんというか、モグラ叩きみたいにして不適切なエロ絵が出るたびに批判するのは場当たり的だし消耗戦だと思う。もっと建設的な戦いはできないだろうか。

たとえば、エロ絵の文法からではなく、本来の女性身体の美しさを描く表現技法を開発するとか。エロ絵によって男性の性的なまなざしで汲み取られるだけの身体表現は、女性本来の美しさを疎外しているとも言えるんだから、本来の美しさの復権を目指したらいいよね。

と書いてみたものの、本来の女性身体の美しさが非・性的なものかっていうと、そうとも限らない。難しいところだな。